平成
今週のお題「平成を振り返る」
私は平成4年に生まれました。
物心ついた頃から「生まれたのは平成です!」って意味も理解せぬまま当たり前に平成を使っていて、昭和は大人の人が使う言葉だと思っていたから、今回元号が変わる事にソワソワした感覚をおぼえます。
私も大人になったんだなぁ。いや今はまだ平成だから、なるんですね。これから大人に。
毎日のようにフリータイムでカラオケに行っていた友達も、夜中までファミレスで愚痴り合った友人も結婚をして子供が歌を歌うほど大きくなっていたり、これから出産という一大イベントに挑んだり、気が付かないうちに夢物語のように話していた事が現実になりつつある日々です。
平成の思い出、、そうだな私は生まれてからずっと平成だったから全部が思い出だけれど。
何故か一番記憶に残っているのは大好きだった母の方の祖母が亡くなった事かな。
52歳という若さで肺がんで亡くなった祖母はそれはそれは破天荒でした。
私が小学1年生くらいだったから7歳くらいで亡くなったのかな?
もう20年前くらいですね。
気が付けば自分の父が今、その祖母よりも年上で不思議な気持ちです。
親戚や家族に話を聞くともう本当破天荒な人で、エピソードが尽きません。
そんな祖母の記憶は7年しか一緒にいなかった私の脳裏にも焼き付いていて離れません。
乗りこなせない自転車で幼稚園まで送ってくれて、幼稚園前で思い切りすっ転んだ事。
幼稚園の帰りに恐らくスーパーで買ってきたであろうイカの天ぷらを食べ歩きした事。
ビールを”ガソリン”と呼んでいたこと。
ホットケーキの焼き方。多分焼いたの初めてだったんでしょう。真っ黒に焦げました。(笑)
畑をしていた祖母は沢山の種類の野菜を育て、夏になると収穫を手伝わせてくれた。
その畑のもぎたてのプチトマトの味。どこのスーパーで買ってもどんなに高いお金を払って取り寄せてもあの味のトマトはなくて、懐かしいです。
あ、あと丸かじりしたラディッシュはとても辛いこと。
夏の夕日に照らされた台所で汗をかきながら夕飯をつくる姿。煮魚の香り。
よくもまぁ覚えているなぁと思います。
それはきっと過ごした時間は短かったけれど、とても私を愛してくれていたからです。私もとても祖母が好きだったからです。
抱きしめてくれたとかそういうものではなくて、なんだかカリスマ性がある人でした。
あまりに好きすぎて父の方の祖母が嫉妬したほどです。
「私だってセーラームーンのおもちゃ買ったりしてるのに何でそっちの祖母なのか」と。
何故なのか最近わかりました。
多分知らない世界を沢山みせてくれたからです。
亡くなるまで私はずっと祖母の病室で寝泊まりしていました。病院もそれを許してくれていました。長くないって分かっていたからでしょう。
祖母の入院食も全部食べました、私が。(笑)
その私を見て笑った祖母の顔も簡単に思い出せる。カキフライが食べたいと空港でカキフライを食べたこと。
急変する前日も毛糸でぬいぐるみを作るおもちゃで遊びました。
1999年12月26日、クリスマスを避けて、そして2000年の世界を見ずに祖母は亡くなりました。ノストラダムスの大予言、うちの祖母の事じゃない?(笑)
冗談は置いといて、、、
冗談でする話でもないけど。(笑)
はじめて死を目にしました。
でも涙は出ませんでした。葬式も。火葬も。骨になっても。
あの頃から私は変わらない。人前で泣くのが苦手です。
でも火葬の日に見た虹を私ははっきりと記憶しているんです。
煙の横に縦に伸びる長い虹を。
めちゃくちゃに綺麗で感動した幼い私は「天国へのエレベーターだね!」と言いました。
大人になって、ふと思い出して調べてみました。
あの虹は幻日《げんじつ》というそうです。
あれ以上に綺麗な虹は、その後見ていません。
オカルトですけど、やはりカリスマ性のある人だったんだと思います。
今26歳になった私は鏡を見ると、祖母に瓜二つでハッとします。
親戚に「生き写しだ」と言われます。
性格も強気で無鉄砲でお風呂で泣く所、少し似ているかも。(笑)
生きるとは引き継ぐ事だなと思います。
平成、恐らく私の両親は私たちを大きくするために悲しみを越え、苦しみも耐え、無我夢中で走ってくれた事でしょう。
だから、今度は私たちが走る番なのかもしれません。
平成、とても幸せで、とても悲しく、とても暗く、そしてとても眩しい日々でした。時代でした。
あ、まだ終わってないんだった(笑)
思い残すことはないけれど、私も祖母のように良くも悪くも何かを誰かに引き継げますように。
トマト育てようかなーー。
でもあの味にはならないんだよな。